早世っていうのは「若死に」のことだから、57歳まで生きた人にはあてはまらないでしょう。
うん、でも、あえて書かせていただきました。
18代目 中村勘三郎さんが本日
(12/5)亡くなりました。
今朝一番のニュースで知り、愕然となりました。
私の中ではまだ「勘九郎」と聞くと、現6代目ではなく、つい18代目勘三郎の顔が浮かんでしまうほど梨園においては長く
(私が生まれたときからもうすでに)「勘九郎」として数々の偉業を成し遂げ、常に新しいものに挑戦し続けてきた人でした。
歌舞伎を「もともとは庶民の中から生まれたもの」として、一般の人に身近に感じてもらえるように、と様々なことを思いついては実行に移してきた勘三郎さん。
本当にやりたいことがいっぱいあって、いっぱいやり過ぎてしまったんだろうな、と思います。
あとはお酒か……(すごい酒豪でしたからね;)。
コクーン歌舞伎、平成中村座、イギリスやアメリカなどへの海外遠征、賛否両論ではあったけれど「大江戸りびんぐでっど」などの新作歌舞伎づくり、合間を縫っての新劇や映画、密着取材への出演……そういったものを通して、どんどん歌舞伎が好きになっていった人も多いのではないでしょうか。
2年前に原因不明の突発性難聴になった時に、もっと大事を取って長く休養してほしかったです。
(今思えば、その年2月の公演で見た俊寛が、私が最後に見た勘三郎さん生舞台となってしまいました)
ただ、その頃には2年後に当時の(2代目)勘太郎くんが「勘九郎」を襲名することが決まっていましたから「ここで父親の俺も頑張らなきゃ!」と思ったのかもしれませんが……
6代目勘九郎も襲名からまだ2年。
18代目にとって父であった17代「勘三郎」の名が大きなものだったのと同様、身近で5代目「勘九郎」の偉業を見てきた6代目にとってもその名の重さは計り知れないものでしょう。
次は何をするかわからない勘三郎さんをまだまだ見ていたかったろうし、色々教えも請いたかったと思います。
弟の七之助くんに至っては尚更でしょう……
逝くのが早すぎるよ勘三郎さん。
先ほど、久々に読み返した『勘九郎ひとりがたり』。
楽しい本なのに、読み進むに連れて涙がどんどん出てきてしまって困りました(苦笑)。
その中に下記のようなくだりがありました。
~略~
逆に寂しいのが、千秋楽。歌舞伎の世界には「打ち上げ」っていうものがありませんから、千秋楽の夜には自分でその芝居に別れを告げるわけですよ。
ですから、とくに好きな役のときは自分がつけてた衣装がボテ(道具を入れる行李)に入ってしまうと、「この次、いつこの役がやれるだろうか」って思って、とっても寂しさを感じることがありますね。
え、私の場合? 『鏡獅子』でしょうね。あれ、ものすごい気力と体力がいりますからね。いま演れっていわれたら? 断りますよ。ダメ、ダメ、こんなに飲んでたら(笑)。
あれ、七十すぎたらできないし、六十代でも無理かもしれない。
でも、いつかいわれるだろうな、子供たちに。
「おい七之助、親父もういい年なのに、『鏡獅子』演るっていってるけど、大丈夫かな」
「これが最後だから、演らせてあげなよ、お兄ちゃん」なんて、勘太郎と七之助にいわれていたりして。嫌だねえ(笑)。
~「浪花楽屋春模様」より抜粋~
数ある演目の中で18代目が特に力を入れていたのが「鏡獅子」。
もうあの迫力ある踊りは見られないんだな、と思うと悲しくてなりません。
まだやりたいこと沢山あったろうな、勘三郎さん。
来年4月の新歌舞伎座のこけら落としを楽しみにしていたとのこと。
きっと今頃先代(17代目)に会って怒られてるに違いない……
17代目 「お前来るのが早すぎなんだよっ、このバカ息子! 雅行
(勘九郎)と隆行
(七之助)のことどうすんだ!(怒)」
でもって「帰れ!」とか言われてたりして。
……それで本当に帰ってきてくれたらいいのに。
ご冥福をお祈りいたします。
平成23年(2011年)2月 歌舞伎座さよなら公演「連獅子」 中村勘三郎・勘太郎・七之助
PR